茨城:筑波山
2004年11月16日 CLOSE
行程
    横浜市内=土浦北IC=筑波山神社 市営駐車場−御幸ヶ原−男体山
      5:30     7:50        8:30-8:50      10:40  10:50-11:40
    −御幸ヶ原−女体山−弁慶茶屋−筑波山神社 駐車場=ホテル青木屋の風呂
          12:20-12:30   13:10    14:20         1050円の展望風呂
    =土浦北IC=横浜市内

コースと概要

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 ガマの油で有名な・・というより「ガマの油」でしか知らない筑波山に行ってきました。なんと、山頂に「日本百名山」の石碑がありました。深田さんの百名山なんですね。また歴史ある関東の霊峰として、「西の富士、東の筑波」と並び称されているとの事。確かに、男体山・女体山の双耳峰の筑波山は、標高876メートルと低山ですが、平野の中の独立峰で見晴らしは抜群。数年前には丹沢から筑波山の稜線がくっきりと見えた事もあります。本日、予報通りの晴ではありましたが、残念ながら丹沢・富士山の展望はなしでした。

                以下の写真、クリックで拡大
筑波山神社の境内には沢山の菊が展示されていました。菊まつりなんでしょうか。
筑波山の伝説を後付で調べてみました
 昔から関東の名山として、西の富士、東の筑波と並び称され・・・・・うーん、ちょっとスケールがねえ。孫引きで恐縮ですが、717〜724年に書かれた「常陸国風土記」で富士山に対する劣等感?が記載されているそうです。
 あちこちの神様の所を旅して回っていた母なる神様が、富士山に到着する頃には日はもうとっぷりと暮れてしまった。母なる神様は子供たちの中でも一番のお気に入りの娘の富士(福慈)の神のところへ泊めてもらおうと頼んだ。ところが、富士の神は、「今日は年に1度の収穫祭の儀式の最中」だと断った。我が子からこのような冷たい言葉を聞いた母なる神様は、「日も暮れてしまったというのに疲れ果てて訪ねてきた母を、泊めてもくれないのか。 こんなに冷たい娘の住んでいる山はこれから未来永劫にわたり冬も夏も、雪と氷に閉ざし、寒さ冷たさが絶え間なく襲いかかる山にしてやる。・・・」と。富士の神のむごい仕打ちにすっかりと気を落としてしまった母なる神様は道を変えて、今まであまり気にかけていなかった筑波山の神のところにやってきて、同じように一夜の宿を頼んだ。 
 すると筑波の神は、「今日は1年で最も大事な収穫祭の儀式のある日だが、母なる神様をお泊めしないわけにはまいりません」と答えてうやうやしく挨拶をした後、食事やお酒を振る舞い、丁重にもてなした。 このもてなしをうけて母なる神様の心はすっかり晴れ晴れしくなり、歓びそこで歌をよまれた。 このことがあって以来、富士山は美しいけれども冷たく、いつも雪をかぶって誰も登ることができなくなった。一方、筑波山はいつも人々がその山頂にまで行き交い、歌い、舞い、飲んだり食べたり騒いだりとにぎやかな山になったのだそうだ。
 現在の筑波山神社のご神体は男体山のイザナギ、女体山のイザナミだそうですが、常陸風土記との整合性がないですね。確認しなかったですが、男体山山頂の祠は南向きだったように思います。女体山も東向きではなかったかも。大和朝廷の神様は東向きに祀られる事が多い筈なんですが??。どこかの時点でご神体が変わったのだろうと調べて見ましたが、そこらに触れた記載は見つからずです。それにしても男体山は871m、女体山は877mと「のみの夫婦」のようです。

左の写真は、男体山の山頂から霞ヶ浦の方面、女体山から見た男体山、そして双耳峰の間にある御幸ヶ原の茶店でから見た可愛いガマです。
 お天気はまずまずの晴でしたが、遠望はきかず、丹沢そして富士山は見えなかったです。
ガマが出てきたのでガマの油伝説について

ガマ石
 筑波山の中腹にある中禅寺の住職・光誉上人が大坂夏の陣に徳川方として従軍、戦傷者の手当てに使った陣中薬が良く効いて評判となり、この光誉上人の顔がなんと蝦蟇(がま)に似ていたところから“ガマ上人の油薬”としてもてはやされた。上人の死後7、80年たった頃、新治村の極道者の兵助が江戸に出て食いつめ、故郷を一目見てから死のうと筑波山に登り、山頂で出会った蝦蟇に諭され一転奮起、ガマの油を浅草寺の境内はじめ方々で売り大当たりしたとか。第18代永井兵助なる名人が生存しておられるそう。なお、「四六の蝦蟇(がま)の口上だが、蝦蟇の指は四六が正常で奇形ではないそう。

奇岩・奇石  

高天原

北斗石

母の胎内潜り

弁慶の七戻り

大仏石