チベットの文化、チベット仏教など
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イントロ
2007年3月24日から4月1日と、ひょんな事から青蔵鉄道でのチベットの旅に
。その記録はホームページ本体にまとめているので(→URL)、ここでは閉鎖したBLOGに断片的にアップしていたチベット文化、チベット仏教などについての雑話を拾い上げました。
まとまりのない話になってますが、自分でも忘れそうなのでホームページに登録して備忘録がわりします。

チベット/ラサにはいつか行きたいと思いながらも、高度障害が心配でためらってましたが、・・・

チベットの旅 記録
ある日、テレビで青蔵鉄道が紹介されました。この鉄道の旅なら高度順応もしやすいだろうと、エイヤっと決定。ネット検索でヒットした辺境専門のツア会社にコンタクトして、我々の希望する時期にツアを設定できないかと依頼して実現。

目次
 チベット文化その1:凄いチベット医学
 チベット文化その2:チベット仏教の死者の書
Ⅲ チベット文化その3:チベット仏教「転生ラマ・活仏・リンボチェ」
 チベット文化その4:チベット仏教「護法神」
 チベット文化その5:チベット仏教の無上瑜伽タントラ、性的ヨーガ
Ⅵ チベット文化その6:チベット文化の紹介図書
Ⅶ チベット文化その7:Ⅵの補足-天葬、鳥葬 
追加:モンゴルとチベット仏教→
Ⅰ チベット文化その1:凄いチベット医学        このページトップへ
 今回のチベットの旅ではラサの蔵病院を見学しました。前日に「ゾウビョウイン」の見学をすると聞いて、「えーっ、象病院。動物病院に何故?」と疑問符が(^_^)。・・・事前調査の不足でした。チベット=西蔵の蔵病院、ここはチベット医学のメッカだったんです。
 チベット医学-東洋医学なんでしょうが、2500年~3000年の歴史があると言われていて、更に3世紀にインドから医者をチベットに招いて現在のチベット医学の基盤を築いたそうです。
 7世紀のソンツェン・ガムポ王の時に、チベット医学も発展したようです。なんと、8世紀にはネパール、中国、インドなどの医学者が集まった医学会議も開催とか(@_@)。
 その頃なんでしょうね、薬師如来の再来と呼ばれるユトク・ニンマ・ヨテンゴンポがチベット医学の学校を設立して、チベット医学の根本経典の「四部医典」を編纂したそう。。
この内容を判りやすく図解したタンカが、17世紀になって描かれたそうです。案内された見学者専用の部屋の奥には薬師如来、ヨテンゴンポも祀られていて、まるでお寺みたいな雰囲気。
部屋にはタンカが架けられていました。80枚ちかくあるそうで、右と下の写真はその中のふたつです。
一枚目、これは尿の色とか臭いで病気を診断するためのものです。えらく詳しいです。
二枚目。こちらは受胎から出産までの過程を描いたタンカです。
同衾から始まって、胎児の成長・・・チーズ状、ヨーグルト状の硬い塊~性別があらわれ~臍帯が形成し~命脈が形成されます。第7週から第9週には眼を形成し、頭部が現れ、胸腹部ができます。ここまでが魚期と呼ばれます。 次は亀期。 第10週から第17週です。五臓六腑・手足が形成されます。第18週から第35週は豚期。筋肉・脂肪・靭帯・筋腱・骨・髄が形成されて皮膚が完成する。頭髪・汗毛・手足の爪が形成されて、臓腑が成熟し、呼吸を開始し記憶も開始される。36週~37週は、胎児は母体内で動き始めそろそろ母体から独立するように考え、38週は、胎児は転倒し分娩の準備を始めるとか。
タンカの絵を見ると、各期の名称はともかく胎盤での胎児が進化論に乗っ取って変化していく姿が具体的に描かれています・・・・・凄い。
ネット検索で、「富山県国際伝統医学センター」のホームページが見つかりました(URL)。
ここのセンターには、四部医典タンカの全80編がそろっているそうです。完全なセットとして保有しているのは、イギリスの大英博物館ほか数多くないと書かれてました。
このセンターで、四部医典タンカ全80点の写真と解説を収めた冊子を販売されていたので申し込みました。
四部医典そのものは国会図書館にあるようです。
 四部医典タンカとは、チベット医薬学の基本的内容・・・人体の解剖学的構造と生理機能、疾病の病因・病理・症状、疾病の診断方法と治療原則、薬物の種類・性味・用法、飲食、起居、衛生保健の知識、医療者の道徳と心得などを系統的に描写したものだそうです。
 これほど膨大な絵画により系統的に医薬衛生、科学理論、実践技術を紹介した作品は、世界の医薬学の歴史においてもほとんど類を見ないと言われているとか。(山県国際伝統医学センター紹介文)

Ⅱ チベット文化その2:チベット仏教の死者の書       このページトップへ
チベット仏教というと、「死者の本」
 ユングが座右の書とし、60年代のヒッピーの聖典?であまりにも有名。チベット行くなら大もとで入手をと意気込みましたが・・・これはラサで入手したが、なんと間違って購入、チベット仏教の僧リンボチェ、ソギャルの著書らしい。彼は中国のチベット侵攻の際にに海外に逃げ出して、いまは欧米で活動中だとか。原著は英語なんでしょうねえ、その中国語訳を買ってしまいました(笑)。死者の本そのものではなくて、それを下敷きに彼の宗教感を敷衍したものらしい。中国語で殆どチンプンカンプン(^_^;)。
 そして帰国後にあたった一連の「死者の本」
まずはニンマ派の埋蔵経典、そしてNHKが特集した番組のDVD(ニンマ派のものらしい)、右端はゲルク派のもの。

ニンマ派

NHK特集

ゲルク派
チベット仏教も宗派が幾つもあってよくわかりません。
一番古いのがニンマ派、一番大きくてダライラマの出身母体でもあるのがゲルク派のようです。
ユング、NHK特集、ヒッピーとの関係はは前者らしいですね。
①.ニンマ派の埋蔵経典のひとつ「死者の書
 これははチベット密教の原点ともいえるのでしょうか。正式名はバルドトドゥルです。経典の内容を、僧侶が死に臨んだ人の耳元にに49日間ずーっと唱えるのだそうです。解脱に向けての指導、あるいは解脱しきれなかった死者に対してはより良い転生をするための進路指導というかハウツーを教える内容になっています。で、その中身ですが、臨死状態から解脱もしくは転生までの各段階で死者の魂(意識)、それをバルド(中有)というらしいですが、バルドが経験する状況・状態を克明に見てきたかのように記述しています。
各段階で死者(バルド、中有)の意識に現れてくるのは
  宇宙意識の光に始まり、仏そして遂には怖い忿怒尊群から極めつけはヤマ王(閻魔大王)まで。
でも、最初の宇宙意識の光以外、仏も怖い忿怒尊群もヤマ王も外部の客観的な存在ではなく、全て死者(中有)の意識が作り出したものと断じています。
 そうなんです、どうも基本的には外界に客観的に存在する人格神のような絶対神とか仏とか怖い神は想定していないようです。現代人の感覚でいうと宇宙を造り上げている真理があって、そこに溶け込むことが解脱。それを判りやすくするために仏という形にしたのが阿弥陀仏か?。それ以外は全て自分の意識というかそれまでの業カルマが生み出したものとして描かれているようです。
 曼荼羅に描かれる沢山の仏も解脱に向けての意識統一の手段として作り出したもので、独立して存在する人格神としての仏を描いたものではなさそう。瞑想に入る修行で、あの曼荼羅の世界を頭の中に描いていくようですね。なになに仏が客観的に存在するのではなく、本質は全て空なんでしょうか。偶像崇拝とは全く違うし、唯一絶対神を想定する宗教とも全く違っていますね。

デブン寺にて
話は変わって、仏教の仏像とか神像です。日本のお寺もそうですが、チベット仏教も寺院に行くとこれでもかというほど沢山の仏像・神像が安置されています。よくもまあ、こんなに沢山の仏、菩薩、神を考え出したものだと感心します。でも、みんな客観的な存在じゃないんだわ。私のハンドルネームに使っている護法と同じ名前の護法神も幻か(^_^)。
②.ゲルク派の「死者の書」
 チベット仏教で一番古いのがニンマ派、一番大きくて、ダライラマの出身母体がゲルク派。他に、サキャ派(モンゴルの権力と上手く結びつき、13~14世紀チベット高原の支配的地位を築く)、カギュ派(多くの分派があるが、「転生活仏(トゥルク)」の理論を作り出したカルマ・カギュ派が最大派)等が主なところか。
 宗派がいっぱいあって、勢力争いもあったりと、教義とやってる事が異なるのは、どこの宗教も同じかも。特に、チベット仏教はダライラマ体制から国の統治という世俗と絡み、成人となったダライラマの暗殺等も多かったようです。転生したという子供を生まれ変わりとして天才教育してきた摂政が黙って権力を渡す方がおかしいでしょう。
 さて、ゲルク派の「死者の書」原題はクスムナムシャ。意味は「基本の三身・死・中有・生の構造を明らかにする燈明といわれるもの」だそうです(^_^)。
 人が死に至り、解脱もしくは転生をするまでの三つの段階が事細かく書かれてます。いったい、誰が見てきたのか聞いてきたのか不思議ですが、それはおいておいて(^_^;)・・我々の感覚では肉体的にはもう生命の火は消えているように思いますが、それでも意識は続いているとして、段階的に現れるビジョンが描かれています。
 ゲルク派とニンマ派では基本的な内容は似ていますが、書き方がかなり異なっています。使い方も違うようです。
 ニンマ派の方はいかにも経典という感じです。僧侶が臨死状態の人の耳に読み聞かせて、次々と現れるビジョンの意味合いを説明、輪廻から抜け出し解脱できるように、転生するとしても少しでも良いようにと対処法を解説するものらしい。
 一方、ゲルク派の方は、かなり論理的に死、中有(バルド)、生の3段階の内容を説明していて、あまり宗教色はない・・・まあ空とか業の概念をどう考えるのかもありますが。どちらかというと、修行者へ向けた経典みたい。
 それにしても、肉体から小さな意識と言われているもの(転生していく根源、生きている間は奥底で眠っている)が抜け出すまでの描写、その人が見るビジョンの説明は詳細かつ具体的で驚きます。こちらは、臨死体験をした人とか、修行僧の瞑想での幻視(もしくは体験?)を元にして描くことが出来そうですが。
 でも、その次の段階、中有(その小さな意識が目覚めて外に出て、バルドとして生まれた状態)の描写からは、次第に想像力の世界に入っていきますね。まあ、現代物理学の人間原理だの無からの相転移などと言ってるレベルと同じかも知れませんが(おっと、先生に叱られそう(^_^;))。
 中有の寿命は7日、次への転生が出来なければ中有の状態を7回まで生まれ変わるらしい(7x7で49日か)。この間は、意識もあり見たり聞いたりもできる、行きたいところは念ずるだけでどこへでもジャンプする能力などもあるらしい。この意識が元の私の意識と繋がっているのか、いないのかゲルク派とニンマ派では解釈が違っている感じですね。
 いずれにしても、この時が解脱できる大きなチャンスらしいです。解脱できないと転生していくしかない(天界、人間界、畜生界、地獄界など色々あるらしい)。この中有は非常に苦しい不安定な状態でなんとか抜け出したいという思いで、必死になって次への道を探しています。ここで業の力が働いて行く先が自然に決まってしまうらしいが、それを何とかしてあげようとして、ニンマ派では死者の書の内容を僧侶が死者の耳に話しかけるらしい。
 その次の生(転生)ですね。ゲルク派の本では人間への転生しか描かれてなかったですが、なかなかの想像力で受精卵に中有が入っていく状況が具体的に描かれてます。ただ、動物などへの転生の場面の具体的な描写は無かったです(想像できなかった?)。ましてや、この広い宇宙ですから、どこにでも行けるのなら人間とは全く違った生命体への転生もあり得るはずですが、そういう描写も全くなし・・・まあ、そんな知識がない時代ですから想像のしようがなかったでしょうけど。
 何世代にもわたって瞑想と修行だけをしてきた密教の僧侶達が造り上げてきた想像の世界だけに、磨きもかかってます。が、まあそれだけの事なのかも。

Ⅲ チベット文化その3:チベット仏教「転生ラマ・活仏・リンボチェ」 このページトップへ
上記の「死者の書」の大元となる[チベット仏教(チベット密教)ってどういうものなんだろうという興味だけではなく、チベットを旅行中に回った超巨大建築のポタラ宮そしてデブン寺などの各寺院で受けたインパクト(五体倒地の敬虔な信者、激しい問答修行する見習い僧、一方で札束を数えている下っ端僧侶、高級アウトドア車に乗る上級僧侶の横では物乞いする子供・・・)もあって、チベット仏教ってなんだろう、その歴史はと少し調べ始めた途中経過です。
上の写真は、チベット密教の全体像をまとめた「チベット密教の本」です。
チベット密教についての全般的な概要と歴史などを紹介している本です。転生ラマ・活仏(かつぶつ)・リンボチェについての多少詳しい話が出ていました。
この「転生ラマ・活仏(かつぶつ)・リンボチェ」。三つの概念がどういう定義なのか区別もよく判らないし、実態がどうなっているのか、この本で少しだけ垣間見ることが出来ました。ただ、色んな人の記事を集めて編纂しているので、それぞれが違うことを言ってたりもします。まあ、論理の世界ではなくて信仰の世界。もともとアバウトな話なんだから、由としましょう。
 さて、ラマとかリンボチェは優れた僧の称号のようです。そして、高僧が亡くなって転生、生まれ変わってきたのが転生ラマ。転生ラマの中でも更に高度な僧が活仏みたいかな。ところで、活仏って「かつぶつ」と読むんですね。日本の仏教で言う「生き仏」とは全く違う概念みたい(^_^;)。
 転生ラマとか活仏というと、ダライラマ(大もとは観音菩薩)とかパンチェンラマ(大もとは阿弥陀如来)までは知っていましたが、そんな限定されたものではなくて、かなりな数の方達がいるようです。しかし、この転生ラマの概念はチベット仏教にもともとあった概念ではなく、宗派のひとつであるカルマカギュ派が造りだした「転生活仏(トゥルク)」の理論が全体に拡がったようですね。
 しかし、高僧が死ぬと転生しての生まれ変わりを探し出す、そして認定する。もちろん認定基準は完全に信仰の世界で客観的なルールは皆無。転生者として認められると、先代の権力・資産を相続を相続するし、家族も一気に貴族階層になるそうですから跡目相続の争いもあるようです。いやはや面倒な仕組みを作ったものです。カルマ・カギュ派の争いが有名みたい。1981年に16世が亡くなり、その転生ラマが二組あっての跡目争いです。チベット自治区のチベット仏教側、インドへ亡命した側、その裏には中国とインドも絡みややこしそう。16世がアメリカ布教に力を入れて、資産が1300億円。この相続がどうなるという生臭い話もあるみたい。
 ところで、ポタラ宮には歴代のダライラマの墓がありました。ミイラになって宝石、金で飾られた巨大な墓です。ダライラマは環境の厳しさでの病死とか摂政による暗殺などで若死が多かったそう。転生したダライラマを見つけてきて摂政が教育、ある年齢に達したら権力移譲という構造が暗殺を多発させたのでしょうかしら。
 この高僧の転生ラマという概念は、チベット密教の本来の輪廻転生、その元になるインド仏教の輪廻転生ともまた違った概念みたい。時代的にもずっと後に、権力争奪絡みでできあがったものみたいですが、面倒でややこしい仕組みを作ったものです

Ⅳ チベット文化その4:チベット仏教「護法神」     このページトップへ
 今度は、自分のハンドルネーム「釋護法」に関連して、チベット仏教の護法神の話です。日本でも密教系の宗派には仏法を守る、伝道する様々な神様が出てきますが、よく似ています。おそらく大乗仏教系は各地での土着宗教を融合して、その過程で元の宗教での神を護法神として取り入れた結果でしょうかしら。
大体が、仁王像と同じような恐ろしい忿怒形をしています。
 どこのお寺だったか忘れましたが、像の顔にに布をかけてましたですね・・・怖いから・ではないでしょうけど。さて、ダルマパーラ=護法神
 チベット密教の解説本では、護法=ダルマパーラ。ダルマは(仏の教え)、パーラは(守護者)と書いてありましたが、ダルマパーラという実在の人物が大昔のインドの僧にもどこかの国の王様にもいたみたいです。最近になっては、同じ名前の人がどこかの国で僧として活動しているみたい。ネット検索すると、これらが錯綜してややこしい事。
で、その護法神の概要解説です。
 法(ブッダの教え)を守護する神々の総称。仏教(とくにチベット仏教)で、修行の妨げになる悪魔や悪しき力から信者達を保護する、激しい性格の神々とみなされている。つまり四天王に似た性格を持っている。チベットでは個々に拝まれる場合もあれば8体からなる集団として崇拝されることもある。後者の場合、ダクシェ「8人の恐ろしい者」と呼ばれ、次の8神からなる。
   カーラディーヴィー(ラモ)、  クベーラ(ヴァイシュラヴァナ)、  ブラフマー(ツァンバ)
   ハヤグリーヴァ、  ベクツェ、   マハーカーラ/マハールカ 
   ヤマ、  ヤマーンタカ 
 このうちヴァイシュラヴァナは四天王の一人でもある。チベットでは、ダルマパーラはたいてい忿怒相で描かれ、ほつれた髪に頭蓋骨を5つ連ねた冠を戴く。
 マハーカーラ は、ヒンドゥー教の神の一柱で、シヴァの別名のひとつとされる。マハーは「大いなる」、カーラは「黒、暗黒」を意味し、世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れる。シャマシャナという森林に住み、 不老長寿の薬をもつ。・・・実は大黒天の事らしいです。日本の大黒天は、「大黒」と「大国」の音が通じていることから神道の大国主神と習合、本来の姿と違い柔和な表情を見せているらしい。
この写真は、チェタンから立体曼荼羅のサムエ寺に行ったとき、お土産に購入した護法神のお面です。
ハンドルネームの護法と直接には関係ありませんが、なんとなく同じ名前でひかれる感じがあったりするものですから(^_^;)。

 チベット文化その5:チベット仏教の無上瑜伽タントラ、性的ヨーガ
                                         
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チベット旅行に行ってから約5ヶ月、まだまだチベット文化に嵌っています。これだけたっぷりと楽しめれば、旅行費用なんて安いものです(^_^)。
流石に手軽に見られる資料も枯渇してきたし、そろそろ止めようかなと思い始めた時に、チベット密教の神秘「快楽の空・智慧の海」という本に出会いました。
モンゴル帝国の時代に大勢力を誇ったサキャ派の支派になるゾン派の寺「コンカルドルジュデン寺」を調査された正木晃さん、立川武蔵さんが出された本です。
お二人がゴンカル空港近くにあるこの寺院に行かれたのは偶然だったようですね。チベット密教の各派の守護尊などの絵が残されていて吃驚されたそうです。いまは、米国だったかの援助で保護対策がとられていて近づいての調査、撮影が難しいとか。 今回の本には、偶然に見つかった「コンカルドルジュデン寺」のタンカなどを紹介しながら、後期密教の内容をかなり具体的に紹介しています。
正式には日本に伝わってこなかったインド後期密教の流れを汲んだチベット密教の思想にはもうひとつ馴染めないものがあります。
日本では左道とか立川流といわれた密教行者の流れが多少とも似通っているようにも思いますが、日本人の感性には馴染めないですね。結局、本流にはなれずに消えていったようです。この写真は父タントラです。
こちらは、母タントラです。
チベット密教というよりは、大もととなるインドの各種宗教で思想がある時点で大逆転したようです。徹底的な戒律遵守から逆転の発想、こお流れから男女の神様が抱き合った歓喜などが造られたのでしょうか。
バラモン、仏教、ヨガ、ヒンズーなどの各宗教は、大雑把にいうと「輪絵からの解脱・・悟り」を目指しています。それを追求するにあたって、俗の部分を徹底的に排除し聖の極みを求める修行がとられてきたが、ある時期に凄まじい発想の逆転が起きたようです。
それまでの宗教観からいうと、まるでカタストロフィですね。セックスをジャンプ台にして一挙に解脱への道を模索するという手法が出てきたようです。これを受け継いで一大体系に造り上げたのがチベット後期密教のようです。これは、もう一般人、特に儒教とか神道の感覚をもった一般の日本人にまずは馴染めませんですね。 このチベット後期密教は、無上瑜伽タントラ、性的ヨーガといわれるようです。こうした発想がもとになって、性のパートナーとしてのダーキニーと抱き合ったヤプユム(男女合体尊像、歓喜仏)が至る所に祀られているんでしょう。   カーラチャクラのタントラです。
カパーラ・ヘーブァジェラのタントラです。
現在はどこまで解脱への手法として実際に使われているのか、あくまで思想としてのレベルに留まっているのか?・・・わかりません。ダライラマさんんは、チベットの解放への取り組みとか高邁な宇宙の神秘についてだけではなく、こうした無上瑜伽タントラの思想t実践が現在どうなっているのか、また歴史的は元王朝とか清王朝が衰亡していく一つの原因ともなった宮廷の性の乱れを造りだしたという俗説などの真相も明らかにして欲しいですね。
こういう底流があるから、少し前の日本では「チベットのいたる所にあるラマ経の陀羅尼・呪文(オンマニペドフム)は猥雑な意味で、とても日本的ではない」といった誤った解説、それも高名な学者の解説も出てきたのでしょう。
なお、オム・マニ・ペメ・フム(Om・Mani・ Pedme・Hum)。実際にはチベット仏教徒によって最もよく唱えられてる観音菩薩の真言(マントラ)です。ダライ・ラマによると、不浄な身体・言葉・思考を、完全に統一された秩序と知恵の教えの道に導くことにより、仏陀になれるということを意味しているとのこと・・・だと聞いています

Ⅵ チベット文化その6:チベット文化の紹介図書         このページトップへ
考古学の本「謎のチベット文明」の著者、徐朝龍さんは茨城大の先生。もうひとかたの霍巍さんは四川連合大学の先生で、日本向けにまとめられた本のようです。
ヒマラヤ山脈、チベット高原が、大昔の大陸プレートのぶつかり合いで海底から隆起してできたという話は有名ですが、もう少し詳しくは・・・、
 4~5000万年前に、インド大陸がユーラシア大陸にぶつかった。この結果、インド大陸がユーラシア大陸の下に潜り込み、ヒマラヤ山脈が隆起し始めた。インド大陸がユーラシア大陸の下に潜り込む速度は年間約数センチほど、これによりヒマラヤ山脈が年間4~5センチほど隆起したといわれる。いまも年に数mmの隆起をしているらしい。
 3000万年前にヒマラヤの周辺山脈ができはじめる。1500万年前頃には今のヒマラヤ山脈の基本的な形ができあがった。 170万年前には、ヒマラヤの高さは3000メートルほどになったと思われる。ヒマラヤ周辺の植生は、針葉樹林と広葉樹林、草地の広がる地帯となった。10万年前ぐらいには、4000メートルを越えたところから、山に遮られ気流の流れが変わり気候が乾燥化に向かった。
 この本はチベットの旧石器時代から新石器時代の発掘品にも触れたいます。亜熱帯森林草原の頃にチベットのハトンタン付近が人類誕生のゆりかごという説もあるくらいだそうです。この付近で旧石器時代の石器も見つかっているそう。4000年前のチョコン(曲貢)では新石器時代の遺跡も見つかっていて、農耕集落の跡もあるそうです。三内丸山遺跡が約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡ですから、ほぼ同時期のようですね。温暖化で海が内陸まで入り込んできた縄文海進の時期と合致。
○「日本人の目から見たチベット通史」の著者、小松原弘さんは、1925年生まれ。阪大の工学部を卒業されて高校の先生と会社勤めをなさり、70歳からチベット研究を始められたという異色の方です。
チベット地域の石器時代から現在までの歴史を実によく調べられています。中国との関わりも唐から元、明、清、中華民国、今の中国まで、判りやすくかつ偏りのないまとめをなさっています。元の宮廷が当時のチベット密教によって風紀紊乱、乱れて、それが滅亡へのひとつの原因というのは本当かどうか。そこまで宗教が力をもったのかどうか。確かにチベット本体での密教による僧侶の風紀の乱れは酷かったようですね(いはゆる左道みたいなのかな)。戒律を厳しくし立て直す事で今の後期密教が確立したらしいですが。現代に入って、中国の人民軍が攻め込んでからの経緯、そして文化大革命でのチベット人の殺戮、投獄などもたんたんと記述されていますが、想像以上に凄まじいですね。唐の時代には中国と対等に近く渡り合っていた強国の吐蕃もその後の社会体制・政治体制に問題があり、ついにはこういう目にあってしまうというのも怖い話です。
ともあれ、この本はお薦めです。

「チベットの夜空の下で眠りたい」という本、なかなか面白い本です。
著者は長岡洋幸さん。1965年生まれの写真家です。ホームページも開設されています。
チベットを中心にネパール、インドを舞台に活躍されている写真家さんです。各地での活動の記録を心にすっと入ってくる読みやすい文章で書かれています。
この地図は上記の本は全く関係ありません。唐の時代の地図で、チベットの前身、吐蕃の勢力範囲が描かれてます。これは、まだ狭いときのもので、ピーク時はもっと勢力の及ぶ範囲は広く、西安を侵略していたこともあります。唐との和睦による国境石碑も残ってます。中国はもともと自国の領土と言ってますが、実態は違ってますよね。

丹羽基二さんという方が文化大革命も終わった後にチベットに何回か行かれた時の旅行記とも随筆ともつかない本を出されています。1919年生まれですから、チベットに行かれたのは70歳前後でしょうね。そのお歳とは思えない行動力と洒脱な若者風の文章に驚きます。ちょっと癖がありますが、チベット文化を眺めるうえでの副読本としては最適かなと思います。ところで、この丹羽さんて何者なんでしょうね。市井の研究者?文筆家?、辺境旅行家、なんとも分類不能のユニークな人物のようです。残念ながら2006年に亡くなられたようです。日本家系図学会会長、「地名を守る会」代表、米オリエンタル大学名誉教授、文学博士。 在野の研究家として苗字だけにとどまらず、家紋、墓、仏足石、紋様などの研究も行う。また、僻地への旅行を趣味としていて、その方面の著作もある。著作が150冊、チベット、ブータンから南極など多数の国への旅も。なんだか凄い人みたいです。
Ⅶチベット文化その7:Ⅵの補足-天葬、鳥葬         このページトップへ
今回の旅で訪問したチェタンの宮殿ユムブ・ラカンです。
文化大革命で破壊されたが、再建されたそうです。
そのチェタンからサムイエ寺へ行く途中の峠越えでツアバスが故障。幸い2台に分乗していたので、無事な方のバスが峠から引き返し、故障車に乗っていたツア客を迎えに行きました。その間、そう40分くらいでしょうか。迎えに行くバスから下車した我々は峠で待機しました。未舗装の道路ですが、この峠道は交通の要所なのか待機中にもホコリを巻き上げながら何台もの車が通過していきました。
峠では、道路を挟んで両側にタルチョがはためいています。標高は4000mはなかったと思いますが、風が強くてかなり寒かったですね。
幸い、2台のバスにゆったりと乗っていたので、故障車のツア客を乗せて戻ってきた1台のバスに全員が乗っても問題なく、がたがた道をサムイエ寺へと無事に移動しました。
さて、この峠の写真が主題なんです。待機中に仲間から離れてひとりで峠の片側の方へと少し登ってみました。はためくタルチョの回りに靴とか服の残骸らしいものがばらまかれています。
いくらなんでも、タルチョの下をゴミ捨て場にするわけはないですし、そんなに傷んでいない靴もあります。なんでも旅の無事を祈って峠で靴を置いていくという風習があるという話をどこかで読んだような気もします。でも服はねえ?
その後に幾つかの本で見た記事と写真から・・・ひょっとしたらと思い始めています。そう、靴とか服とか髪の毛だけが残される「あの場所」です。もう少し上まで登ればなにか判ったのかもですが。