兵庫:姫路城、たつの市 小京都散策
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行程  2015年5月18日
    徳島市内=鳴門IC=明石大橋=姫路城
    姫路城=たつの市 小京都散策=鳴門IC=徳島市

コースと概要  以下、クリックで地図、写真拡大します


グーグルマップ
GPS全行程
地元の日帰りバスツアで、「大天守の大修理が終わった姫路城」と「隣のたつの市での小京都散策」。三食付きの格安ツアです(^_^)。大修理前の2010年4月に桜の花見を兼ねての姫路城を観光。その時は、大修理用のネットはかけられていなかったが、大型クレーンでの作業はスタートしていました。 befiore/after でどう変化したかも興味あります。


姫路城 さくらもん橋

入った広場から

入った広場から
2010年のときは桜が満開で、凄い人出。天守閣にあがるのは諦め、もっぱら城の敷地内を桜花見を兼ねて散策。

2010年

2010年
今回は、平日で天気予報もいまいちだったためか、意外と激しい混雑は無くてすんなりと入場。天守閣の2階から登るところで少し待機があった程度。心配した雨にも降られずラッキーでした。
修理で真っ白になった姫路城ですが、お天気で見え方も少し違うかも。2010年時点より特に屋根の辺りがかなり白くなったようです。
天守へと移動。狭い急な階段です。

水四門

水六門

天守の2階で待機中

急な階段

最上階

天守からの眺め

天守からの眺め

天守からの眺め
最上階まで行くと流石に人でぎっしりです。
最上階にある神社には「刑部神社」と書かれていましたが、ネットでは「長壁神社」と書いている方もおられる。 その方によると、
  祭神の姫路長壁大神 播磨富姫神は姫山の氏神様。姫路長壁大神は、延喜式では「姫路刑部大神」となっているらしい。 寛延元年に姫路城主・松平明矩が「長壁大神」と改めたのだとか。
でも、天守閣では何故か「刑部神社」。どうなってるんだろ?

天守からの眺め

最上階に長壁神社
また、その刑部大神。どういう方なのかネットで調べてもよく分かりません。
長壁姫、小刑部姫、刑部姫、小坂部姫とは、姫路城に隠れ住むといわれる妖怪の女性という話もありました。 一方、「姫路城を守る会」の記事によると、
  古代より姫山に鎮座された由緒ある地主神である。 城主池田輝政が、城内「との三門」の高台に祀り
  歴代城主は手篤く崇敬する。
  明治12年に総社に移されたが、のちに勧請され天守楼上に祀る。 明治15年の城内備前前屋敷の火
  災、昭和20年の大空襲にも奇跡的に炎上 を免れた。 姫路城の守護神であり火災・災害等にご霊験
  あらたかで、人々の信仰が篤い。 毎年6月22日、ゆかた祭りとしてご神徳をたたえる。
うーん、城の守護神でもあり、妖怪という話もありですね。天守閣に移ったのは明治になってからなんですね。 それに、刑部大神なんですが、刑部親王(忍壁 皇子)は天武天皇の皇子で、富姫はその皇女だとも。ますます混乱です。

武者隠し

武具架け

石落とし

流し
天守への登りと下りは違う階段と廊下を利用の一方通行。
途中に色んな仕掛け、設備がある。
姫路城を支える2本の大柱(西と東)。高さ24.6m、根元直径95cm、末口42cmで、地階から6階の床下まで延びている。 重い天守を支えたため、地盤が沈み傾いたので、昭和の大改修で、岩盤まで掘り下げてコンクリート基礎を施したとか。 西の大柱は3階で2本の接ぎ合わせ、昭和の大改修で解体、組み上げたらしい。各地を探して、木曽国有林の樹齢780年の檜と地元神埼郡笠型神社の樹齢670年の檜をで継ぎ合わせて再現。 東の大柱は根本の補強だけ古いまま。

東大柱

西大柱
天守閣の観光を終えて、本丸の広場までおり、備前門の所に来ると
   ・・・説明の看板があります↓
門の右側の石垣できれいに加工された直方体の石は、古墳に埋葬されていた石棺だと書いてあります。
古墳から掘り出して、石垣に転用したらしい。他にも石棺の転用があり、これが姫路城の 石垣の特徴と説明されてます。
他にもマークを刻印した石垣、石段もありました。

石棺

刻印ある石
この刻印の方は理由があるようです。 築城時に苦労して石を運び込むので、他場所の責任者に石を持っていかれない様にマ−クを入れたのではないかといわれているようです。 ただ、刻印の種類とか形についての理由は謎が多いそう。 家紋を入れたり、また一文字などがあるらしい。
更に、こうした石棺とか刻印された石だけではなく、今回は判らなかったが墓石の転用もたくさんあるらしいので墓に彫られた印なのかも。
 同じような墓石利用で有名なところでは、福知山城の復興天守閣に使われている石垣。最近のニュースによると、無数の墓石が利用されているとの事。 ここの天守台に使われている転用石(墓石を含め、このように別の目的で使用されていた石の総称)は、表面に見えているもので110個、天守台の地中、その他から発見したものが419個もあったとか。
そして、転用石のうち、圧倒的に多かったのが五輪塔の一部や宝匡印塔の墓塔あるいは供養塔として造られた石碑だそうです。
転用の理由は、築城にかける時間的な余裕が無かったことなどがあげられてもいるらしい。 でも、それにしては石垣全体に占める割合が低すぎるのではという意見もあるようです。
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戦国時代の人達の感覚・感性はどうだったのか、大変興味あるところです。
武士と農民という階級による区別もそれほどはなく、日常が戦いのなかで死と隣り合わせという人達ではなかったのか。 なので、敵だけでなく味方まで騙してでも勝つことが最優先の実力主義で、そこには自主独立の精神もはぐくまれていただろうし、役にも立たない信仰などにあまり囚われない極めてダイナミックな人達だったのかもしれない。
その後、刀狩りから江戸時代へと身分制度が固まり、戦いの無い日常に移行していくなかで、感性がどんどんと変化して、いまの我々に近いものになっていったのかも。

お菊の井戸

マギー審司
このあとは、お菊の井戸から千姫の西の丸へと移動。
お菊の井戸で、ちょうど姫路城のロケをしているマギー審司と出会いました。 お菊の亡霊が井戸で夜な夜な「イチマーイ、ニマーイ..」と皿を数える怪談、江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』しか知らなかったが、実は姫路城を舞台にした『播州皿屋敷』の方が有名らしい(^_^;)。
「お菊の井戸」と「播州皿屋敷」。他にも宮本武蔵の妖怪退治とか、この姫路城には怪異な話がつきまとっているのかしら(^_^;)。
東京の番町皿屋敷とは違って、こちら播州皿屋敷は室町時代の話らしい。
応仁の乱の頃、姫路城の城主は小寺氏。その執権の青山鉄山が城を乗っ取ろうと企てていたが、それに気づいた忠臣の衣笠元信が愛人のお菊を鉄山の屋敷に奉公させて鉄山の陰謀を未然に阻止。
その後もお菊は、鉄山の屋敷でスパイを継続。これに気づいた悪者がお菊に言いよったが拒絶。お菊を憎らしく思うようになった悪者、お菊が預かる家宝の十枚の皿うち一枚を隠してその罪をお菊に負わせ、ついにお菊を切り殺し庭の井戸に投げ込んだそう。
なんだか後世の人が物語として作ったみたいな気がするが、いつからなのか城内に立派な井戸が残されているのも不思議といえば不思議。

カーブ素晴らしい
石垣

三国堀

三国堀から天守

西の丸から天守
西の丸へ移動途中の三国堀。ここは姫山と鷺山のふたつのやまがあり、その谷だったところが三国堀らしい。
大阪城の落城前に救出された千姫が姫路藩主「本多忠政」の長男「忠刻」と再婚して、西の丸に近い「三の丸」に住んでいた。千姫は、西の丸を囲む石垣の上の長い建物「百間廊下」とその先にある「化粧櫓」に来て、 男山の中腹に建立した男山千姫天満宮を拝んでいたらしい、その際に、侍女たちが居た場所が長さ約280mの西の丸長局(百間廊下)。廊下には沢山の小部屋(28個あるらしい)。

百間廊下

化粧櫓

西の丸から天守

狭間

覗くと

もう一度天守を
西の丸を出て入り口の「さくら門橋」から次の「たつの市」へとバス移動。
たつの市へ移動前に姫路城の近くでランチ。ランチ後の集合まで、近くにあった播磨国総社「射楯兵主神社」を見学。境内に源来光の「鬼石]とか長髪神社が併設。
この後、北西にバス移動し、たつの市で小京都の町並みを散策。

播磨国総社
「射楯兵主神社」

長髪神社

鬼石

ああ玉杯の石碑

赤とんぼの歌碑
ボランティアガイドさんと合流、「童謡の小道」へ。「赤とんぼ」の作詩者三木露風の生誕地にちなんで、全国から選ばれた童謡の上位8曲を作詩者の出身地の石で歌碑(赤とんぼ、里の秋、夕焼け小焼、七つの子、ちいさい秋みつけた、みかんの花咲く丘、月の砂漠、叱られて)を設置。前に立つと童謡が流れます。
市中心の龍野町には武家屋敷や白壁の土蔵が残っていて、龍野藩5万3千石の城下町の面影から「播磨の小京都」と呼ばれている。
心字池の上にある茶室は、庭園、池、杉垣根などと調和した数奇屋風の建築。
聚遠亭
白壁

白壁

龍野城の復元

野見宿禰神社
鶏籠山には山城と山麓の平山城があったらしい。
相撲の元祖、野見宿禰が故郷の出雲に帰る途中、この地で病死し、出雲から多くの人々が来て川からリレー式に石を運び墓を築いたとされていて、「野に立つ人」「立野」が、いつしか「龍野」になったとか。
桜の多い道で、たくさんの毛虫が発生。散策中の仲間にもくっついて大騒ぎ。庭園とか施設も月曜日のためお休みだし、雨がぱらつき始めたため、じっくりとは観光できず(^_^;)。

垣根のトケイソウ

クジャクの卵