隠岐島 |
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行程 2012年6月15,16日
6/15 徳島市内=瀬戸大橋=境港=(高速船)=隠岐島、島後の西郷港= 玉若酢神社
=国分寺跡=白島展望台=水若酢神社=ローソク島クルージング=隠岐プラザホテル
6/16 西郷港=(フェリー)=島前 別府港=赤尾展望台=摩天崖=国賀浜=由良比女神社
=(高速船)=島根 七類港=瀬戸大橋=徳島市内 |
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コースと概要 以下、クリックで地図、写真拡大します |
隠岐島とGPS |
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隠岐島という島はなくて隠岐諸島を総称する言葉だそうですね。立山という山はない立山連峰みたいなものですね。
最近では竹島問題、歴史上では後醍醐天皇の配流と脱出など興味はあっても、ちょっと遠くてこれまで縁がなかった場所です。地元のバスツア広告を見つけて、いつものエイヤッパターンで申し込み(^_^;)。
赤い線がGPSで記録した移動経路。
隠岐諸島は島後水道を境に島前と島後に分けられます。今回は境港から高速船で島後の西郷港へ移動して観光です。 翌日は、もうひとつの島前に移動。「島前三島」の知夫里島、中ノ島、西ノ島から構成されていて、西の島を観光。 |
高速船、フェリー |
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一日目は境港かた高速船で島後の西郷港へ移動。二日目は遅いフェリーで西郷港から島前の別府港へと移動しました。 帰りは高速船で七類港に戻ります。
高速船は時速70Kmほどと速いが、フェリーだと倍以上の時間がかかります。この高速船は水中翼船ですが、再来年は新型になるらしい。 更に早くなるのかな。
隠岐島は大小とりまぜて約180個もの島から構成されているらしい。そして、例の竹島はここ隠岐に属する島だそうです。日本側の住所は「島根県隠岐郡隠岐の島町竹島官有無番地」。 |
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国境に近い町
武装した海上保安庁の船、領土問題、密航などへの垂れ幕など、それなりの緊迫感もあります。 |
境港 監視レーダー? |
海上保安庁の武装船 |
密航、密輸、テロ
竹島の横断幕 |
竹島の道標 |
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水木しげるロード
隠岐島の港・船のあちらこちらに鬼太郎の絵、彫刻があります。
境港の水木ロードが隠岐にまで延びてきている感じです。 |
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実は「水木しげる」の本名は「武良 茂」。
先祖が島後の武良郷の出身かもとの縁かららしいです。 |
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===やっとレポの本体です まずは島後の観光=== |
境港に到着前、大山が雲の中から姿を見せてくれました。
境港の高速船、フェリーのターミナルはなかなか迫力あります。
大きな橋の下を高速船はゆっくりと通過して日本海へと出て行きます。 |
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高速船 船尾 |
西郷港 |
ターミナルの鬼太郎 |
歓迎看板 |
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流石に高速船は速い。一時間半ほどで島後の西郷港に到着。
「おもさも遊ばっしゃい」の看板。 |
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西郷港からは地元のチャーターバスと多才な現地ガイドさんの案内で 玉若酢神社の48代宮司億岐家住宅と宝物殿(日本唯一の駅鈴、佛面竹を見てから神社へ。
この駅鈴は古代律令時代に朝廷より支給されたもので、官吏の公務出張の際に身分証明のように使ったそうだ。ここ隠岐に唯一残っているとか。 |
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玉若酢神社の本殿は隠岐造。大社造り、神明造り、 春日造りの合体だとか。千木とかつお木の上に雀踊りの横木が 乗っています。 |
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入口には樹齢2000年らしい大きな八百杉があります。国の天然記念物。若狭の国から人魚の肉を食べて老いることを知らない比丘尼が記念に植えていったとか。
続いて隠岐国分寺跡、後醍醐天皇の行在所へと移動。
廃仏毀釈により本堂や三重塔が焼き払われ、 |
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隠岐国分寺蓮華会舞
舞台でガイドさんの舞 |
隠岐国分寺蓮華会舞 |
隠岐国分寺蓮華会舞 |
廃仏毀釈で
捨てられた仏像 |
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昭和25年に再建された本堂は、平成19年の出火で全焼との事。真言宗の寺として存在はしているようだ。 |
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ここ隠岐では明治の悪法「神仏判然令による廃仏毀釈」が激しく吹き荒れたそうです。
寺社は焼かれて壊滅、仏像・石仏なども破壊・破棄されたらしい。 その後も寺の復活はあまりなくて、神社数は約100に対して寺院数は約20だとか。島根県全体では1,171社に対して1,323寺だそうですから、
隠岐ではいまも寺は非常に少ない。なので葬儀は神式が多いとか。
どうも原因は明治になって派遣された隠岐の県知事が徹底した廃仏をした事、その前の隠岐騒動(松江藩と隠岐の庄屋達の争い)で松江藩側に僧侶がついた事などが原因のようですね。 |
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ここが配流された後醍醐天皇の行在所とされています。島前の黒木御所という説があるらしいが、残された文書ふたつをもとに国はこちらだと認定して、文部省の標識が立っていました。一方、太平記によると黒木御所だし、島脱出時のありありとした言い伝えとか、天皇が島前の人に下賜した物品が色々あるとか。
どちらがほんとなのか?。
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文部省 行在所表示 |
後醍醐天皇
王城鎮守社 |
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迫力ある闘牛の牛 |
モーモードーム |
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すぐ横にあるモーモードーム。牛突きという闘牛がいまも 盛んだとか。 承久の乱で隠岐(島前)に流された後鳥羽上皇を慰めようと、島民が農耕用の牛を闘わせたのが始まりだとか。でも、現在は島後でしかやってないらしい。 |
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続いては島の北端、白島海岸へ移動したが、曇り空で景観はもうひとつ。でも展望台で多才な現地ガイドさんが隠岐古典相撲の呼び出しを実演してくれました。
この後、水若酢神社へと移動。 |
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水若酢神社 |
本殿 |
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隠岐古典相撲 |
ここの本殿も隠岐造りだが雀踊りの横木がない。そこの神主さんが置くかどうか決めてるらしい。土俵は隠岐古典相撲の土俵。島後の風習らしいが、公共施設の竣工などを祝って開催されるとの事。取り組みは二番とり、恨みっこなしの引き分けとする、役付力士は土俵に立てた柱をもらい、これは名誉で軒下に飾るとのこと。 |
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最後に観光パンフレットには必ず載っている「ローソク島クルージング」です。 |
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残念ながらローソク島クルージングは曇り空のために、有名らしい「まるでローソクの炎のような頭が夕陽で輝く景観」は観る事ができませんでした。 |
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西郷港の近くのホテルまで戻りました。食事はなかなか良かったですね。 |
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===翌日はフェリーで移動、島前の観光=== |
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翌日、ホテル横の水祖神社を見てから港へ。ここから島前にはフェリーで移動です。距離はずっと長い境港から西郷港までは高速船だと約1時間半(フェリーだと約4時間)ですが、ずっと近い道後-島前移動にフェリーだと同じ1時間半ほども時間がかかります(^_^;)。
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島後とは方言も少し違い、古典相撲とか牛突きは島前にはない。途中寄港した島前の菱浦港も下船した別府港も雰囲気が西郷港とはちょっと違う。 |
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島前のチャーターバスに乗り、新しい現地ガイドさんと、まず赤尾展望所へと移動。
島前の西ノ島では丘陵に牛、馬が放牧されています。品質は評判良く、ここで育てた子牛が松阪牛などにもおろされているらしい。 |
なお、本土で一般的な野性動物(熊、鹿、タヌキ、キツネ等)は生息しないで、一番大きな獣がオキノウサギ(耳が短く、毛が白くならないウサギ)だとの事。
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赤尾展望所は霧のために展望もなく、歩くのも危険と摩天崖へと移動。ここも遊歩道で海岸には出ないでバスで移動です。 |
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下りた国賀海岸の奇岩です。 |
国賀神社 |
通天橋 奥は摩天崖
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観音岩など |
奇岩の案内図 |
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別府湊に戻る途中に由良比女神社に立ち寄りました。神社前の波打ち際には定期的に大量のイカが押し寄せて掬いどり、引っ掛けどりができるそうです。いまは、押し寄せる前に漁船が網で採ってしまうので激減したらしい。
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由良比女神社 本殿 |
別府港前の案内版 |
向こうに黒木神社 |
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由良比女神社の本殿も雀踊りのない隠岐造りです。
そして戻った別府港。ターミナルの前に後醍醐天皇の関連史跡の案内。湾の向こう側に行在所のあったといわれる黒木神社(御所跡)が見えます。 |
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ところで、配流時の後醍醐天皇の行在所です。
ひとつは道後の国分寺跡。そうしてもうひとつが島前の黒木御所跡。 どちらが本当なのか?
実は、明治になって中央の偉い学者が、出雲の「鰐淵寺文書」と 「増鏡」の記載から「島後の隠岐国分寺が行在所」と判断。それで国がそう決めたらしい・・・でも、なんだか怪しいかな。
現地ガイドさんの話を聞いていると、公式説にはそのふたつの文献の簡単な記載しか証拠がなさそう。一方、島前説の方は天皇の脱出ルート伝承も具体的
だし、寵姫の阿野廉子の三位局屋敷跡や監視を行っていた見付島などの史跡などもあるし、地元の方に下賜された物なども色々残っている そうだ。 |
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本土への帰りは高速船で七類港へと移動、境港の土産物店に立ち寄ってから四国へと戻りました。 |
七類港 |
土産物店 |
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