徳島 高越山
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行程  2012年5月29日
   徳島市内=高越大橋-中の郷---高越寺---奥の院-山頂-高越寺-中ノ郷-高越大橋
    7:30   9:00-9:10 10:35-10:50 12:30-13:10        13:30  13:40  14:25   15:30
   高越大橋=船窪ツツジ公園=高越大橋=徳島市内
   

コースと概要  以下、クリックで地図、写真拡大します

グーグルマップとGPS
前日になって急に思い立ち、徳島の山「高越山」に登り、帰りに船窪のオンツツジに寄ってきました。 徳島県吉野川市にあって、標高1133m。きれいな三角錐の形から「阿波富士」とも呼ばれ、地元では「オコーツァン」と言われてます。
今回は標高80mほどの高越大橋から登り、ピストンして下山。船窪までは車で移動しました。 以前は高越山の山頂直下にある高越寺から横道を歩いて船窪まで移動したが、その後の林道下りの長さに辟易したので、今回は車を活用。
それでも沿面距離が約15Kmで累積標高差は約1500mと充分な負荷があります。


高越大橋 登山口

???

スイカズラ

スイカズラ
登山口には既に数台の車が停まっています。
名前不明の小さな花を見て次の林道交叉部。そこにはスイカズラの白い花そして経時変化した黄色い花が。
鉄塔巡視路を登っていきますが、すぐ四等三角があります。たぶん「大張」という名称。
ウマノアシガタ、ウツギ、立派になりそうなサルノコシカケなどを見ながら中ノ郷へ到着。向こうの双耳峰が高越山です。
ヤブウツギ、モチツツジ、そして黄色と白色の二色の混じった花の先には中善寺の鳥居(かっての神仏習合を引き継いでます)。
中善寺の前には萬代池。2009年に池はまだ藪の中だったから、その後に整備されたのでしょう。2011年にはなかった赤樫と七人塚への道も整備されたようです。
中善寺がいつ頃建立されたのか、七人塚の謂われは等を山川町史で調べたのですが判明せず。町史に出ていた昔の写真を引用させてもらいます。中善寺は高越寺の管轄らしく、江戸時代の史料の高越寺の関係者リストがありました。川田村棟付帳の高越寺の項目に、
   壱家 高越寺 27歳 、    壱人 高越寺弟子 22歳  ・・・・
   小家 高越寺中善寺 60歳   などが記載されているようです。
中ノ郷の庵には「ここで茶を求めて弁当の半分を食す」と書かれてますから、庵とはいっても茶店みたいなものかも。残念ながら問題の七人塚の記載はなしでした。

山川町史より

モチツツジ

トンボ

テンナンショウかな
中ノ郷で行程の約半分。今日は相棒ともども不調で時間がかかっています(^_^;)。
前々日の一斉清掃、溝掃除の疲れから回復していない感じです。
修験道の山で女人禁制だったらしい。いまは紫燈大護摩のある8月18日の十八山会式だけは女人禁制。

フタリシズカ

可愛いキノコ

女人小屋?

女人禁制門
高越寺の直下には行場への道が分岐しています。
そして石段を登ると山門、その奥には高越大権現を祀る本堂。
高越寺は昭和14年に山門と鐘楼を残して全焼して、二次大戦後に漸次復旧していったそう。檀家を持たない寺で権力者の保護により成り立っていたそうで、明治になって甚だしく衰微したそうだ。その後、信者の寄附で復興。
ただ、徳島では廃仏毀釈が比較的穏やかで、高越権現は神主不在であったので軋轢はあまりなかったとか。明治4年に高越権現の神仏取り分けをしたそうだ。なぜ、本堂の高越大権現なのか不思議ですね。また、どうして高越寺ではなく高越神社の方が寺の南側の少し上の方へ移動したのかも不明だそうだ。
寺の休憩所で弁当にさせてもらって、飲みきってしまった水も補給させてもらった。食事後、奥の院から大師像のある山頂。高越神社と周回して高越寺に戻りました。

奥の院

遠く船窪のツツジ

山頂

高越神社
周回中の花達。

そして同じ道をピストンして交通大橋に戻り、ここから車で標高1050mの船窪まで登りました。船窪のオンツツジは残念ながら終わってしまっていました。樹齢300年以上のツツジが自然群生していて、国の天然記念物になっています。
残念なので、初めて行った2005年5月 と2010年5月の写真も添付。

今回のオンツツジ

2005年5月

2010年5月

余談 高越鉱山
高越山のある山川町の町史を調べていて驚きました。ここにはそれなりの規模の銅鉱山がったようです。
周辺には複数の鉱山があったようですが、一番大きかったのが高越鉱山。徳島県で最も大きな銅鉱山であったそうだ。
明治の初め頃に露頭が見つかり、明治29年手堀りで採掘を始める。大正~昭和にかけて日本鉱業が経営権を取得し次第に周辺の鉱山も吸収。大正5年には現在の県道を造り、トロリー軌道を敷いた。最盛期は従業員が1000名以上。 昭和27年から高越鉱業が運営、従業員百数十名。

山川町史より

2009年のこうつの里
昭和46年に閉山し、その跡にできたのが大阪市と共同で造った勤労者の為のコミュニティ施設のキャンプ場「こうつの里」(温泉、バンガロー、食堂、バーベキュー施設、テニスコートなど)で坑道から出る温泉を使っていたそうだ。別子銅山の小型版ですね。2008年に高越山に行ったときには施設をちょっと覗いたのに、その後見つからないと思ったら2009年3月に閉鎖されてしまったらしい。いやあ、利用しておけば良かった