徳島 阿波史跡公園~気延山
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行程  1月29日
   徳島市内=国府=阿波史跡公園-園内散策-気延山-阿波史跡公園 駐車場

   =市立考古学資料館=徳島市内

コースと概要  以下、クリックで地図、写真拡大します

グーグルアース
コースは後から作成
ローカル新聞で紹介された阿波史跡公園を訪問。徳島市の西の方、国府町というところにあります。公園内に竪穴式住居、県内最大の古墳群があるとの事。遺跡オタク?としては行かなくっちゃ(笑)。山歩きを始める前のウォーキングにはまっていた頃(そう、ウォーキングという雑誌が創刊され、エクササイズウォーキングという言葉が出始めた直前です)、町田、長津田、市が尾、磯子などの竪穴式住居跡、あるいは横穴式墳墓などをひたすら歩いて訪れました。 人気もなく、林が鬱蒼として、なんとなく霊気?漂う雰囲気が好きなのかも。流石に、雨の夕暮れに横穴式墳墓は頂けないですが。


竪穴式住居

高床倉庫
阿波史跡公園です。随分と立派な整備された公園です。
復元された竪穴式住居、高床倉庫なども少し立派すぎるかな。数が少なくて規模は三内丸山の復元施設には及ばないし、少しあっけらかんとし過ぎかも。 園内には古墳群、気延山の登山路、椿ロードなどもあり、市民の森のような雰囲気でもあります。
そして、竪穴式住居のすぐ近くには宮谷古墳があります。3世紀後半の古墳時代初期につくられた徳島県で最古級の前方後円墳だそうです。近畿地方の古墳と同じ様式(阿波がルーツだという説もあるとか)。この古墳から東を眺めると、眉山と今の徳島市の中心部から海まで展望が開けます。この下辺りには縄文時代の遺跡も複数見つかっていて貝塚もあるそう。海が近くまで迫っていたのでしょう(縄文海進)。後期頃には海も後退したそうですが、下は河川が網状に分布する湿地帯だったらしい。

宮谷古墳

松熊神社

八倉比賣神社へ
そして、折角なので園内の標識に従って八倉比賣神社を目指します。途中の松熊神社、祭神は手力男命、天宇受女命だそうで、いよいよ天照大神に関係ありそうです。
八倉比賣神社です。社の後ろ石段を登ったところにあるのが奥の院。古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれているとされています。青石の祠には、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴しているとか。

八倉比賣神社

五角形の祭壇
八倉比賣神社はネットで調べると色んな説があるようです。境内の説明には、
 「当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。・・・奥の院は・・丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。・・・八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。・・・・鎮座の年代は、詳かではないが、1773年の古文書の「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦三三八年となり、四世紀初の古墳発生期にあたる」うんぬんと書かれています。 どうも天照大神の墳墓だといってるみたいです。
 ・・・・・古文書からの年代計算が間違っている(紀元前になるんだけど?)ようなのは愛嬌でしょうか。

気延山
今回は軽く散歩の予定でしたが、至る所に「気延山 登山道」の標識があり、ふらふらと登っていく羽目になりました。思ったより長くて勾配もあります。古墳群があり、雰囲気的には山自体が古墳といった感じ。
周りには人の姿もなく、なかなかの雰囲気です。山頂には西を向いた石像、西方浄土を見ているのでしょうか。


市立考古学資料館

近辺の遺跡地図
帰りに史跡公園の横にある考古学資料館に立ち寄りました。企画展示「鮎喰川流域の人々のくらしと文化~古代から中世へ~」が始まったところでした。この付近には古代の遺跡が豊富にあるようです。国府というように律令時代の中心地でもあったし、鮎喰川を挟んで気延山、眉山といった地形になっていて、もっと古くから徳島の中心、核だったというイメージを強く受けます。