高野山
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行程 10月8日
 徳島市内=金剛三昧院=中の橋-奥の院-中の橋=一の橋=金剛峯寺=紀ノ川PA=徳島市内
   8:00   13:20-14:00  14:25              16:00  16:20-17:00

コースと概要  以下、クリックで地図、写真拡大します

グーグルアースとGPS

カシミール

パンフレット
先日は熊野古道に、今回は高野山です。いずれも日帰りツアで世界遺産の一部を観光。いずれは自分なりの山歩きコースを検討するための偵察です。
余談ですが、GPSによる記録が一部でおかしくなっています。上空は開けているのに何故なんでしょう。
高野三山(摩尼山、楊柳山、転軸山)というのも今回のツアをきっかけに初めて知ったというお恥ずかしい状態です。なんと高野山という山はなくて一帯の総称であり、標高が~800mの高地の広い盆地になっているのも今回初めて知りました。この盆地に、別格本山という呼称のついた寺院が無数にあり、民家に学校もある大きな町が拡がっているのには驚きました。
ところで、別格本山とはどういう意味なんでしょう。観光地でよくある本家、総本家、元祖といった勝手な呼称ではなさそう・・・実は、高野山の各寺院は日本の各地域毎に担当が決まっていたとか。以前は各地域からの参拝者が宿泊する宿坊もそれに合わせて決まっていたそうですね。

金剛峯寺の辺りの町並みです。参拝者用の店も多いし、普通の民家も学校もある、大きな町ですね。
精進料理の昼食を食べた金剛三昧院です。多宝塔は国宝だそう。北条政子が建立したとか。落慶法要には禅宗(臨済宗らしい)の僧侶が来たそうで、法要の受付をしているお坊さんに歴史を尋ねましたが、禅宗と真言宗の関係/変化がもうひとつ判然としなかったです(律、臨済、真言の三宗合同・・そんな事ってあるのかしら)。

金剛三昧院

多宝塔

境内の神木?

企業などの供養塔
「中の橋から各種供養塔、お墓が並ぶ参道を奥の院まで歩きます。まずは、企業とか団体の様々な供養塔が目に付きます(宗教+広告かな)。
現地のガイド(修行僧?)がつきます。毎日ガイドするから上手になるのかな、流暢に次々と説明してくれます。数珠の作法、仏壇の作法、五輪の意味、お盆の送り迎え等。千年も大勢の僧侶が思索を巡らせば、凄い虚構の世界が構築されたでしょう。幽霊、霊魂、祟る迷信とし、供養という概念はない浄土真宗とは相当に違ってます。チベット仏教の「死者の書」に描かれている死~転生までのイメージ世界も壮大です。死者のそれまでの生き様が反映したイメージ、因果応報の恐怖?イメージも凄い。
戦国時代~江戸時代の有名な武将のお墓、供養塔なども沢山。敵味方も仲良く並んでます。でも、これらのお墓、供養塔を建立したのは誰なんでしょうね。供養塔を作る前に滅びてしまった一族もいるでしょうしねえ。
それに有名な武将のお墓はそれぞれ縁のある地に建立されてますよね。それらと高野山のものはどういう位置づけなんだろ?
変わったところでは、芭蕉の句碑がありました。

武将の墓、供養塔

芭蕉の句碑

親鸞聖人

法然上人
続いて、奥の院までの参拝道です。なんと、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞のお墓までありました。いずれも、本来のお墓は、法然上人が京都の二尊院、親鸞聖人が京都の大谷本廟ですね。現在の浄土真宗は真言宗とはかなり異なった宗旨になっていると思っていたけど、高野山のお墓はどういう位置づけなんだろ?そこはそこ日本の宗教の融通無碍ぶりかな。
奥の院への最終入口です。ここからは写真撮影も禁止。更に下着も禁止で、山用のシャツ一枚だと失礼かなと上に長袖のワイシャツを羽織りました。地下の御法場まで降りてスクリーンに微かに映る弘法大師の影像に参拝。
再びバスで「中の橋」から「一の橋」へ。ここには、参拝した秀吉だったかの武将が金縛りで渡れなくなったという伝説なかったかしら。

奥の院 入口

一の橋

金剛峯寺 入口

金剛峯寺 本堂

六時鐘
金剛峯寺まで戻りました。 金剛峯寺から福島正則が寄進したという六時鐘、壇上伽藍と観光。
参加したツアは参拝の方がほとんど、納札あるいは掛軸などの手続きに行かれていました。私は、すぐ近くの壇上伽藍の観光へと移動です。
壇上伽藍

帰りの日没風景
初めての高野山でした。想像以上に大きな町が標高~800mの盆地に開けている事、沢山の別格本山などの寺院がある事に、宣伝も兼ねてでしょうが企業・団体の供養塔が多い事、建立の経緯は判りませんが武将・大名の供養塔、墓が多い事などに驚き。武将の墓が多いのは、徳川家康が各藩の情報収集に高野聖の助けを借りた事から、幕府が高野山を保護したのがひとつの原因だとのことです。
高野山から下山していくバスの車窓から夕日に染まる山と空です。