熊野古道
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行程  5月25日
   徳島市内=鳴門大橋=明石大橋=阪南道路=通行止め泉南IC=根来 道の駅=和歌山IC
     6:00                             9:57       10:15     10:55
   =白浜とれとれ市=牛馬童子 道の駅-牛馬童子、箸折峠-近露王子-近露天馬所跡
     12:10-12:50    13:38-13:50   14:20-14:30    15:00-15:16    15:24
   -野長瀬一族の墓-月待供養塔-比曽原王子-継桜王子、一方杉-秀衡桜
       15:30       16:20      16:30    16:50-17:06     17:09-17:16
   -野中の清水-バス乗車=徳島市内
      17:24     17:30    ~23:30??   

コースと概要  以下、クリックで地図、写真拡大します

グーグルアースとGPS

カシミールとGPS
 徳島に移り首都圏時代より少しは近くなった筈の熊野古道。計画はたてますが、意外とアクセスが不便.。実現できずにいたところ、スポーツクラブの日帰りバスツアがあり、熊野古道のほんの一部ですが、古道がどういうものか垣間見るチャンスと参加。6時に徳島を出発、鳴門大橋・明石大橋を渡って高速道路を移動。高速「阪南道路」が雨のため通行止めで大渋滞、
一般道に迂回というハプニングもあり、歩き始めたのが14時。やはり遠いです(^_^;)。
 牛馬童子の道の駅から秀衡桜まで中辺路の約8Kmを語り部さんの説明を聞きながらゆっくりとした移動。ゴールの野中一方杉バス停付近に到着は17時過ぎでした。3時間強の歩きです。

 熊野古道・・・「普通の簡易舗装道路」「透水型舗装の遊歩道」「何故か中国から来た石を使った石畳舗装」そして「断続的にある普通の山道(これだけが世界遺産の道だとか)」・・・これらが組み合わさったものらしい。
 ついてくださった語り部さんは話が上手でした。お話しを聞きながら平安~鎌倉の古に思いをはせながら歩きますが、実はこれがないと普通の田舎道と里山の道という印象かも。


雲を被る明石大橋

路肩停車の阪南道路

根来 道の駅
なんでしょう?
前夜は激しい雨でしたが、ツアは決行。個人の旅なら延期したかも。明石大橋も雲の中です。雨は収まってきましたが、阪南道路は雨で通行止め。一般道路に迂回したおかげで小説でしか知らなかった根来寺の町を通過できました(笑)。1時間遅れで白浜のとれとれ市場で昼食。

広い駐車場

土産売り場

昼食

市場
食堂、土産店、海鮮市場、バーベキューと大規模。お客も大勢。流石にメジャー観光地。食事もグー。

やっとウォーキング開始の牛馬童子口に到着。ここで案内してくださる語り部さんと合流。世界遺産になったばかりの石見銀山のガイドさんに比べて、流石にこなれています。要所要所で我々が集合するのを待って説明を開始、内容もわかりやすいです。

牛馬童子 道の駅

牛馬童子口

世界遺産の道

牛馬童子

下の里村

舗装遊歩道
牛馬童子の石像です。花山法皇の旅姿とも?横は役行者らしい。一番奥が古道で一番古い石塔の法筐印塔。ここを下ると世界遺産の道ではなく舗装道路になる。歩道は中国から来たという石を敷き詰めた遊歩道です。
里村の小川という風情の遊歩道を行くと近露王子跡。熊野99王子は旅の安全祈願で熊野権現の子供「王子」を祀った跡で、宿場にもなっていたとか。右の石碑は大本教の出口教主の字だが、昭和10年の宗教弾圧で取り壊される所を誤魔化しで免れたいきさつがあるらしい。

里村の小川

近露王子跡

近露王子 石碑

元旅籠の案内

伝馬所跡

野長瀬氏・横矢氏
一族の墓
廃業した元旅籠の案内標識とか紀州藩の伝馬所跡があちらこちらにあります。
南朝方の武将の野長瀬氏・横矢氏一族の墓も・・山に埋もれていたのを約40年前に発掘して祀ったものだそう。石塔の本来の並べ方は馬蹄形らしいが、文化財に指定されたため直せないとの事。
世界遺産部分の古道を登っていくと月待供養塔。眼下の集落の背景には変わった形の山が見えます。まさに里山・里村の風景。
語り部さんから熊野の「三体の月」伝説を聞きました。徳島県の上勝町にも「三体の月」伝承があります。語り部さんはわざわざ上勝まで調査に行ったそうです。上勝町は旧暦7月26日、熊野の方は、旧暦11月23日に昇る月が三体に見えるという伝承だそうです。

月待ち供養塔

供養塔から見下ろす
実際に「月待ち」の行事があった(ある?)そうです。熊野権現は唐の天台山から飛行してきた神様だそうで、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れた伝説から「三体の月」伝承が生まれたのかもとの事。

中国石の石畳

継桜王子跡

継桜王子跡

継桜王子跡
更に移動した先は近代になって人の手が入り世界遺産になれなかった石畳の古道。何故か中国産の石が使われているとか。
そして秀衡桜とその下の「野中の清水」まで行って迎えのツアバスの乗車しました。
秀衡桜には3代目と書いてありました・・時代が合わない(笑)。三つの句碑は高浜虚子、娘さん、お孫さんのものだそうです。

秀衡桜と句碑

野中の清水

里山

 帰りの高速は順調でしたが、行きの遅れが尾をひいて帰宅して寝に入ったのは翌日(^_^;)。やはり熊野は遠いです。今回のような超ダイジェスト版で限られた部分を垣間見ただけで、熊野のほんとの魅力は判らなかったかも。次の熊野訪問を検討しなくっちゃ((^_^)。

 熊野詣では、平安時代後期の浄土教が盛んになってくる頃から盛んになって、院政期には歴代の上皇の参詣が頻繁に行なわれたらしい。後白河院の参詣は34回(@_@)。大部隊の時は最大814人、一日の米が41俵にもなったらしい。
 こうした上皇の参詣に伴い熊野街道が発展し、街道沿いに九十九王子と呼ばれる熊野権現の御子神が祀られたそうです。九十九は実数ではなくて、多いという意味らしい。その後、江戸時代後期の紀州藩の「聖や山伏、熊野比丘尼」の活動規制で衰え、明治の神仏分離令により衰退してしまったそうです。

 語り部さんのこうした話を聞きながら歴史にどっぷり浸かる旅も、もしくは懐かしい里山・里村を歩く旅も、あるいは両者のミックスも熊野の旅の楽しみなんでしょう。
 あるいは、今回は経験しなかったですが、いまだ行者修行の場ともなっている熊野奥駆け、こちらはまた旅とは違った魅力があるようですね。以前にカナディアンロッキーで現地ガイドをしてもらったカナダの若者ですが、熊野の行者修行にはまってました。和歌山に先生として滞在していたことがあるそうで、えらく日本の宗教・古代史に詳しくて、彼が運転する車の助手席に座った私に神話から古代史まで色々と質問してきました。なけなしの知識で応対しましたです(^_^;)。和歌山にまた来て熊野奥駈けの行者修行をしたいと言ってました。魅力があるんでしょうね。

 ともあれ、修行ではなく旅としての熊野古道だと、トレッキング重視なら普通の山歩きの方が良いかも、歴史重視なら古道歩きよりも熊野三山への参拝をメインにした方が良いのかもと感じた一日でした。