滋賀・岐阜 伊吹山
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 徳島でお付き合い頂くようになった友人ご夫妻と花畑で有名な伊吹山を訪問。私達が初めての伊吹山を訪問して素晴らしい花畑に感激したのは昨年の8月18日でした。俳句を嗜まれる友人ご夫妻に是非、この花畑をご紹介したいとお誘いした今年も何故か同じ時期の8月17日。
行程  8月17日
    徳島市内=鳴門大橋=明石大橋=関ヶ原IC=伊吹山ドライブウェー=山頂駐車場
       04:15                                      9:10-10:20
                                                天気回復待ち
    西遊歩道−山頂−東遊歩道−山頂駐車場
         11:45-13:05        14:20
    =伊吹山ドライブウェー=関ヶ原IIC==多賀SA==明石大橋=鳴門大橋=徳島市内
                        多賀大社、SAで風呂と食事                    

プロローグ  台風10号の進路にやきもき  以下、クリックで地図、写真拡大します
 8月14日に日本の近海で台風10号が発生。近畿に向かって北上しそうなコースにハラハラしながら天気予報のホームページをチェック。前日には2〜3時間おきにウォッチしていました。我々にとっては幸いな事に、台風は進路を次第に西に振り始め、速度も速くなってきたようです。これならまずは大丈夫と早朝4時に雨がぱらつく中を出発。神戸、大阪では、まずまずの曇り。かえって灼熱の中を歩かなくて済むわいとニンマリ。ところが、そう甘くはありません。関ヶ原辺りから雲行き怪しく時おり強い雨も降り始めました。

前日の台風予想図
伊吹山ドライブウエイの入口で係員の方から、「上は風も強く、霧で視界も数m」との情報。2台に1台は引き返しているそうな。我々は、取り敢えず登山口の駐車場まで行ってみることにしました。
予報通りに台風が西進して日本海に行ってしまえば、次第に天気も回復する筈・・でしたが、結局その日は九州の東海上に停滞しっぱなし。翌日はなんと九州の中央を北上。この日だと流石に伊吹山も行き帰りの高速でもかなり荒れたでしょうね。幸運でした。

実際の台風進路

コースと概要  以下、クリックで地図、写真拡大します
ドライブウエイ終端の駐車場、8〜9合目辺りになるでしょうか。ドライブウエイの入口での情報どおり、やはり視界は数mほど、どこに建物があるのか、登山口はどこ?の状態です。私達は、昨年に来ているので大凡の感じはわかります。時折は車のドアを抑えるのがやっとの突風も吹き付けます。雨脚も強く、トイレの近くに車を停めて待機しました。

1時間ほどの待機で、次第に風、雨も弱くなってきました。昨年の経験で、これなら充分にOKとの判断で雨具をつけてハイキング開始。写真はフル装備の仲間3人です。まだ霧は濃くて、登山口の近くまで近づいてやっと分かる状態です。西の遊歩道から入りましたが、花畑を観賞するには充分、少し離れたシシウドが幻想的に霧の中に微かに白い立ち姿を見せてくれ、雨具の帽子もはずせる程に回復。

時折の突風と強い雨脚

いざ出陣


山頂の大乗峰伊吹山寺

山頂に建つ日本武尊
弥勒菩薩の祠 霧に包まれた山頂で展望はありません。雨が時折ぱらつくため、お弁当は茶店に入りました。
天気も良く、空気が澄んでいると、木曽御嶽からの日の出が見えるようです。
茶店でゆっくりと昼食・休憩して山頂の花畑に行きました。山頂の花畑、沢山の高山の花が、自然にできたまるでワイルドフラワーガーデンのように拡がった風景は流石に霧に隠れて味わえません。

少し奥の三角点

空気が澄むと
こういう展望も

昨年の同時期の山頂

ツアバスの大集団

西遊歩道の行列
帰りは東回りコースで駐車場に戻りますと・・・なんと凄いバスの数。各地を出発したときは心配になるような天気だっと思いますが、ツアだと動いてしまうんですねえ。
我々が駐車場に待機しているときは流石にバスは2〜3台が到着したくらいでした。諦めて帰って行った賢明なツア会社もありました。いまは朝より回復基調とはいえ、まあ凄いですね。西遊歩道も行列です。
駐車場の展望台から琵琶湖方面の眺めです。
時折、霧のカーテンがひかれると琵琶湖の一部と竹生島も姿を現します。

駐車場から琵琶湖

カシミールで展望図

○それでは、西回りの遊歩道〜山頂〜東回りの遊歩道で見かけた花、花・・花です

シシウド

霧の中のシシウド
イブキボウフウ?
アカソ

ルリトラノオ

ルリトラノオ

クサボタン

コオニユリ

クガイソウ

ホタルブクロ

ヨモギ

ワレモコウ

イブキトラノオ

ツリガネニンジン

(何?)フウロ

シモツケソウ,ワレモコウ

ノダケ

メタカラコウ

シモツケソウ

シモツケソウ

サラシナショウマ

タムラソウ

トリカブト

マルバタケブキ

○番外編 多賀大社の参拝
 伊吹山からの帰りは名神高速の多賀SAで休憩。風呂、仮眠所、ホテルがSAエリア内にあって便利ですね。
ご一緒した友人ご夫妻に教えていただきました。今回は風呂と食事のみで仮眠所を利用しなかったですが、この仮眠所もなかなか快適、ギュウ詰めの山小屋よりずっと快適そう。
風呂と食事の前に、SAから小1時間で歩いて往復(一周)できる多賀大社に参拝してきました。
約1時間くらいの歩程でしょうか、SAから円を描くようにまわることができます。途中に、忘れられたような雰囲気で林と雑草の影にD51の機関車が鎮座していました。
参道に入る前のお宅の庭に花をつけていたトケイソウ、思わずパチリと撮してしまいました。
多賀大社ですが、「お多賀さん」という愛称で、江戸時代からお伊勢参りとあわせ沢山の参拝者が訪れたらしいですね。そのためか、門前の通り(絵馬通り)には、「右は中山道のなんとかとか、左は京都」などのいくつか古い石の道標が残っていました。 多賀大社の祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱だそうです。それで、江戸時代には「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」と俗謡に唄われたとか。

多賀大社 鳥居

石の太鼓橋
写真の太鼓橋、我々は渡ってしまいました。実は、御神輿すなわち神様の通り道だったようです。岩木山の参道で地元の方に教えていただきました。真ん中の道は神様の道、参拝は左または右の道を使わないといけないそうです。そういえば、紫禁城でも真ん中は皇帝が通る道でした。
余談:参拝して気になった三っつの事
   大社って? 祭神の変遷は? 莚命長寿って? 

大社って?
 前近代には杵築大社(現出雲大社)・熊野大社(いずれも島根県)しか大社と名乗っておらず、戦前は出雲大社のみが大社を名乗っていたそうです。
 現在では政教分離により国家、皇室が神社に直接関与しなくなったため、特に許可を受けなくても、大社、神宮を名乗ることができ、大社を名乗っている神社は上記の二社のほか、気多大社(石川県)、諏訪大社(長野県)、南宮大社(岐阜県)、三嶋大社・富士山本宮浅間大社(静岡県)、

本殿
多度大社(三重県)、日吉大社・多賀大社・建部大社(滋賀県)、松尾大社・伏見稲荷大社(京都府)、住吉大社(大阪府)、春日大社・龍田大社・広瀬大社(奈良県)、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社(和歌山県)、宗像大社・高良大社(福岡県)などだそうです。

祭神の変遷は?
 多賀大社のお札授与の建物の壁にかかっていた掛け軸には「多賀大明神」のお名前が書かれていました。
 奈良時代頃から鎌倉時代にかけて始まった神仏習合、そして明治になって無理矢理に神仏分離令が強行されて国家が神道を管理したために、各地で祭神が変動しています。神官のお話しでは、多賀大明神はイザナギ・イザナミ二柱の別称だという事でした。確かに、イザナギ・イザナミ二柱が主祭神となった古い歴史があるようです。よくある明治になっての神様の総入れ替えではなかったようです。
 イザナギ・イザナミは、先ほどの江戸時代の俗謡にも出てきますし、古事記にも記載されているとか。古事記に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐す」とあります。場所はここではなくて淡路島という説もあるようですが、社伝では「神代の昔、伊邪那岐大神は本社東方の杉坂山に降臨され、麓の栗栖の里でお休みの後、多賀にお鎮まりになった」と伝わっているとか。

 神仏習合時代の多賀大社は天台宗だったよう。天台宗の不動院、観音院・般若院・成就院の坊人たちの活発な布教で多賀信仰が全国各地に広まったとか。738年に多賀大社造営、本地堂、護摩堂、如法堂、八角経蔵、三重塔、御宝蔵、楼門を再建。766年に田鹿神、日向神合祀。808年に山田神合祀。926年に多何神社二座(なんだろ?)、これよりさき伊邪那美大神が配祀されたが、その年代不詳となっています。 1494年に不動院開基。ほとんどの建立歴史が神仏習合の神宮寺関係ですね。イザナミが祭られたのはだいぶ後になってのようです。

莚命長寿の莚って?
 白い石に願い事を書いて絵馬のように奉納する場所がありました。俊乗坊重源上人(しゅんじょうぼうちょうげんしょうにん)の逸話が素になっているそうです。
 後白河法皇より、平重衡によって焼失した南都東大寺復興の命を受けた上人は、すでに齢60を過ぎていて、この大事業成就のため多賀大社に17日間参籠してひたすら莚命を祈った。満願の暁、柏の葉1枚が上人の前に舞い落ちてきた。みれば『莚』という字の虫食いがありました。草冠は十を2つ並べて書くことから、上人は20年の寿命を授かったと歓喜し、建久6年に東大寺大仏殿再建を成し遂げた・・・という逸話があるようです。爾来、お多賀さんは莚命長寿の神様としての信仰が生まれたそうです。の字が延命に使われるのは、ここ多賀だけだそうです。


最近寄進されたサザレ石

能楽堂

鐘楼

大釜
境内は広くいろんな神社が合祀されていました。戦国時代に寄進された文化財も沢山あって見応えあります。
多賀大社の近くにある普光山真如寺です。たぶん、長い間、こちらが多賀大社の本家のような存在だったのかなと、神仏分離で移動したのかなと、これは私の想像です。多賀大社の仏像を当寺に納めたという記載があります。
また、近くの長仙寺には多賀壽命殿があって、「多賀壽命尊」が祭られているそうです。こちらが莚命長寿の本家かもですね。神仏分離令の煽りで訳が分かりません。
その「多賀壽命尊」と多賀大明神の区別がつきませんが、本地仏は阿弥陀如来だそうです。長仙寺の阿弥陀堂に多賀大明神を勧請したという記載もありました。

真如寺
参道の絵馬通り、各戸の玄関に絵馬がかっかていました。立派な由緒ありそうな料理旅館、そして屋根の下に水と書かれた家です。火除けのまじないではと連れ合いが言ってました。